企業の成長には、いくつかの通過点があります。立ち上げから中堅中小企業への成長、株式上場、企業の合併吸収などに伴って「これまでのIT基盤が企業の成長にフィットしなくなるタイミング」が訪れます。
この時、既存のIT基盤に新たなシステムやSaaSを継ぎ足すような形で対応してしまうと、システムが複雑化して多大な維持運用のための人件費とコストがかかり続けることになります。それぞれのシステムが持つデータも分散と分断によってカオスと化し、経営に必要な情報を取得するのが困難になってしまいます。
この「企業の成長の壁」を乗り越えるためのシステム設計とはどのようなものなのでしょうか。本記事では、上場を果たし、企業買収に乗り出すなど、企業規模が変わろうとするタイミングでIT基盤と組織を刷新したChatworkの事例をご紹介します。
動画記事の前編では、チャットワーク CSE部の須藤裕嗣氏と冨田航氏、イエソド 取締役 竹内伸次氏のプレゼンションの模様をご紹介します(テキスト記事の前編と後編も公開中です)。
まとめ:記事のポイント
- カオスからの脱却: スプレッドシート管理を廃止し、YESODをハブとした構成へ。
- 時系列管理の威力: 「過去・現在・未来」の情報を保持することで、監査対応と運用予約を容易に。
- 攻めのIT基盤: M&Aや多角化にも柔軟に対応できる、スケール可能なアーキテクチャを実現。
Chatworkが直面した「急成長によるシステムの複雑化」と解決戦略
従業員数が4年で4倍に。拡大期に現れた「エンタープライズの壁」
Chatworkは2019年の上場を機に急激な成長を遂げ、従業員数は2019年の101名から、わずか4年で411名へと約4倍に増加しました。この急拡大に伴い、社内では以下のような「エンタープライズの壁」と呼ばれる課題が顕在化し始めました。
- 各部門から積み上がる要望に対し、処理が追いつかなくなる
- 手動操作によるオペレーションミスの発生
- システムの複雑化に伴う保守工数の拡大、および採用進捗の遅延
IT領域では投資対効果が下がり、現場では組織の肥大化によるオペレーションコストが増加、経営層にとってはモニタリングの正確性や予測精度が低下するという、全社的な痛みを伴う状況になっていました。
「スケール」と「モニタリング」を支えるITインフラ方針
この危機を乗り越えるため、2021年12月よりコンサルティングを導入し、「スケール」と「モニタリング」の2点にフォーカスしたIT戦略を策定しました。
- スケール: 事業が拡張しても組織は極力スリムに保ち、データ統合とプロセス連携を維持できる仕組みを構築する。
- モニタリング: データを可視化し、経営判断に必要な情報をリアルタイムに把握して統制PDCAを改善する。
具体的には、「シンプル化(ルールの簡素化・システム削減)」→「自動化・拡張」→「可視化・標準化」という一貫性のある方針を掲げ、すべての土台となる「保守可能かつ開発連携ができる人事データベースの整備」へと着手しました。
Workdayに頼らない「人事DB内製」と「yesod」選定の理由
Googleスプレッドシート手動管理の限界とデータライフサイクル
従来、Chatworkの人事データはGoogleスプレッドシートで手動管理されていました。過去の履歴は追える状態だったものの、「手動メンテの限界」「柔軟な権限設定の難しさ」「組織ツリー構造の表現の限界」「コピペによる工数肥大化」といった致命的な課題を抱えていました。
人事データはアプリケーションよりも寿命が長いため、特定のSaaSベンダーにロックインされない環境(自社でコントロール可能な状態)を作ることが重要です。将来的にWorkdayのようなグローバルデファクト製品に移行する可能性も視野に入れつつ、現在の組織規模(1,000人未満、グループ会社5社程度)に最適で、現実的な運用ができるHRコアシステムを探す必要がありました。
yesod(HRコア)×内製データハブ(中間DB)のハイブリッド構成
検討の結果、HRコアの機能をすべて内製すると莫大な開発期間(最低でも半年以上)がかかるため、コア機能にはSaaSである「yesod(イエソド)」を採用しました。
同時に、自社でデータをコントロールするため、AWS上に中間データベースである「HRデータハブ」を内製構築。楽天の事例を参考に、yesodからAPI経由で取得したデータをこの「HRデータハブ」に集約し、下流の各種SaaSへと連携させる「ハイブリッド型アーキテクチャ」を確立しました。
【yesodの選定ポイント】
- 過去・未来の日付ベースで組織図や発令情報の操作・表示変更が可能であること
- API連携が容易で、業務委託や派遣社員など正社員以外のメンバーも一元管理できること
- 日本の組織特有の「複数役職」や「兼務設定」に柔軟に対応できること
esod導入で実現したアカウント連携とオペレーションの効率化
入社・退職・組織変更における工数削減効果
yesodと内製データハブ、そして認証基盤であるOktaを連携させたことで、手動で行われていたアカウント発行や権限変更の多くが自動化されました。現在、旧システムとの並行稼働を終えた「After」の世界では、以下のような劇的な工数削減を見込んでいます。
| オペレーション | 導入前(Before) | 導入後(After見込み) | 効果 |
| 入社処理 | 115分 / 人 | 45分 / 人 | 約6割の工数削減(SmartHR連携やOkta自動発行による) |
| 退職処理 | 95分 / 人 | 50分 / 人 | 約5割の工数削減(アカウント削除の自動化など) |
| 組織変更 | 95分 / 人 | 40分 / 人 | 約6割の工数削減(指定日における組織図・発令票の自動更新) |
権限管理や休職者・入社前業務委託の閲覧制限など、現場運用のリアルな課題と解決策
実際のシステム導入にあたっては、現場の運用ルールとの間でいくつかの課題が生じましたが、yesod側の迅速な機能アップデートによって解決されました。
- 課題1:入社前業務委託の閲覧制限正社員として入社する前に業務委託として稼働する特殊ケースにおいて、一般従業員にそのステータスが見えてしまう不都合が発生。
- 解決策: 雇用形態を「業務委託」に統合した上で、別途「雇用形態フラグ」を新設。一般ロールの閲覧権限を絞ることで解決。
- 課題2:組織図の閲覧範囲(過去・未来)旧運用では「未来の組織図は当月末まで、過去はすべて閲覧可」としていたが、yesodの初期仕様では「当日のみ」か「過去・未来すべて閲覧」の2択だった。
- 解決策: イエソド社の迅速な開発により、旧運用と同じ柔軟な閲覧制限ができるよう機能をアップデート。
- 課題3:休職者の在籍ステータス非表示プライバシー保護の観点から、一般従業員に休職(育休除く)の事実を伏せたいという要望。
- 解決策: 在籍状況のカラムやフィルター自体を非表示にできるアップデートをyesod側で実施し、現場の運用に最適化。
イエソドが提唱する「時系列な人組織マスター」がバックオフィスの一丁目一番地である理由
Excel・スプレッドシート管理は「300名の壁」で限界を迎える
後半のセクションでは、株式会社イエソドの竹内氏より、人組織マスターのあるべき姿について解説されました。
多くの企業がExcelやGoogleスプレッドシートで人事情報を管理していますが、組織規模が「300名」を超えると歪みが生まれ、マクロや人力での運用は限界を迎えます。
部門ごとに個別最適でSaaSを導入した結果、情報がサイロ化し、人事イベントのたびにデータの突合やメンテナンスに追われるバックオフィスは少なくありません。信頼できる唯一の情報源(Single Source of Truth)としての人組織マスターを構築することこそが、変化に強いバックオフィスを作るための「一丁目一番地」となります。
IDガバナンスの自動化へ。アカウントコントロール機能によるゼロトラストの実現
単なる自動化ではなく「情報管理の複雑化」への対処
組織がスケールし、グループ会社化や出向・転籍、頻繁な組織変更が発生するようになると、管理部門の組織も縦割りになり、アカウント管理や権限管理はさらに複雑化します。ここで必要なのは、単に作業を自動化するツールではなく、「情報管理の複雑化に対処するためのガバナンス(統制)の構築」です。
ゼロトラストの原則に基づき、「人にアカウントを割り当てる」のではなく、「組織・役割・職務権限規定(属性)に沿って最小限の権限を割り当てる」という設計思想への転換が求められます。
人事イベントを起点としたアカウント・権限管理の自動生成と是正サイクル
イエソドが新たに提供する「アカウントコントロール機能(クローズドベータ版)」では、人事マスター(yesod)のライフサイクルイベント(正社員登用、異動、退職など)を起点に、各SaaSのアカウント付与・変更・剥奪のタスクを自動生成します。
さらに重要なのは、「実態との突合(是正サイクル)」です。各SaaS側から実際の権限情報を抽出し、人事マスター上のルールと付き合わせることで、「退職者のアカウントが残っていないか」「付与されるべきでない人に管理者権限が渡っていないか」を検知・是正します。この監査サイクルを回すことこそが、真のIDガバナンスの実現へとつながります。
Chatworkの事例が示すように、組織が急成長を遂げる前、あるいはシステムが複雑化してカオスになる前に「時系列で管理できる人組織マスター」を確立することは、IT投資対効果を高め、セキュリティリスクを最小化するための不可欠な戦略です。
「手動でのアカウント管理に限界を感じている」「監査や棚卸しのコストを削減したい」「変化に強いバックオフィス基盤を作りたい」とお考えの企業は、単なる個別最適の自動化に留まらず、yesodのような時系列人事マスターを起点とした、全体最適のシステムアーキテクチャ設計を検討してみてはいかがでしょうか。
動画インデックス
・Chatwork 須藤氏 冨田氏プレゼンテーション
Chatwork のエンタープライズ化を IT で支える「スケールする情報システム基盤構築」について
- 会社状況の変化と会社成長時に出てきた課題について【00:01:50】
- テーマ は「スケール」と「モニタリング」【00:05:13】
- 海外を含む複数事業体をいかにマネージしてスケールさせるか【00:06:07】
- 一貫性のある方針とは【00:06:41】
- 設計(アーキテクチャ)とフェーズ分けについて【00:08:21】
- 過去の人事 DB(Spreadsheet)の仕様【00:09:57】
- 人事 DB 連携システムのコンセプトと中間DBの構築について【00:11:08】
- HR Core はSaaS 利用とその理由とは【00:13:08】
- YESOD を選定した理由とは【00:15:23】
- 導入前~未来のシステムの全体像の変化について【00:17:36】
- HR COREとHR データハブのアーキテクチャーについて【00:21:52】
- YESODで管理する項目とは【00:23:26】
- 実際のオペレーションで解説【00:26:10】
- 実際のPJスケジュールをご紹介【00:34:09】
- 実際に課題になったこととその解決策をご紹介【00:37:12】
- 導入効果と今後の展望について【00:46:33】
・株式会社 イエソド 竹内氏プレゼンテーション
時系列な人・組織マスタを起点とするアカウント・権限管理のガバナンスと業務効率化
- 個別最適なシステム導入により生じるデータのバケツリレーとサイロ化【00:54:01】
- マスタを起点とした業務の構築について【00:55:30】
- 人・組織マスタに求められる重要な要件とは【00:56:27】
- 従業員のライフサイクルに沿った属性を時系列に蓄積【00:58:12】
- 時系列な人・組織マスタでは変化を捉えることができる【00:59:05】
- YESOD実際の画面をご紹介【01:00:00】
- コア技術と利点【01:05:31】
- アカウント権限管理のよくある課題と【01:06:49】
- 対処すべきは自動化ではなくガバナンス【01:08:06】
- 「組織・役割」(職務権限規定)に紐づけた権限管理を行うことが重要【01:10:07】
登壇者プロフィール

Chatwork株式会社 CSE部
須藤裕嗣氏
Chatwork株式会社 コーポレート本部CSE部 兼 セキュリティ室。2003年に電気通信大学情報工学部を卒業後、NEC 情報システムズに入社。その後、2005年にChatWork株式会社の前身となるEC studioに入社、サービス・基盤開発に従事した後、コーポレート本部に異動。情報システム全般を管轄するCSE部を立ち上げ、2 年で10人以上採用し体制強化を実現。情報システムの基盤としてSSO・MDM等の導入とともに、人事 DB の設計・構築を推進した。現在はCEO直下にて、セキュリティ室の立ち上げメンバーとしてガバナンス強化に携わっている。

Chatwork株式会社 CSE部
冨田航氏
Chatwork株式会社コーポレート本部CSE部。大学卒業後、国内・外資企業のエンジニア、コンサルタントとしてシステム導入、BPR、運用等に関わる。2011年からは管理部門で主に人事労務、総務業務に従事。2019年より株式会社スカイアーチネットワークスの人事労務部門でプレイングマネジャーとしてSaaSを中心としたシステム導入を推進し、オペレーションの刷新及び人事データの基盤整備を実現する。2023年1月より現職のChatwork株式会社にジョインし、情報システムの観点から人事労務領域のエキスパートとしてシステム企画に携わる。

株式会社イエソド 取締役
竹内伸次氏
アビームコンサルティング株式会社にて、大手金融機関を中心に全社BPRプロジェクトにおけるシステム導入・統合、 IT企画・運用等に従事。その後同社にて、システム人材の育成計画策定、セキュリティ強化施策の企画・実行支援や、基幹システム刷新における発注側PMO支援など、経営マネジメント層をカウンターとする多数のIT戦略プロジェクトを推進。2019年2月よりイエソドの立ち上げに従事。

