昨今、企業の間でITの内製化が注目されています。しかし、外部パートナーに依存していたIT施策の主導権を取り戻し、ビジネス部門と協力しながら課題解決を目指す──という方向に舵を切ろうとすると、さまざまな課題が浮上するのも事実です。
内製化に伴う組織編成、内製化人材の教育や採用、外部パートナー選び、経営層への説明などは、企業の戦略や文化、ビジネスモデルなどによって異なり、企業によっては必ずしも内製化が最適解ではないケースもあります。
「自社に最適なIT戦略を考えるためには、自社が置かれている市場環境や競争環境、その中でのありたい姿、そこに到達するために企業としてどの能力を高めていくのかを考え抜くことが重要」──。こう話すのが、星野リゾートの情報システムグループでグループディレクターを務める久本英司氏です。
本記事では、こうした考えのもと、結果として内製化に舵を切った久本氏をゲストに迎えて開催したDarsanaの主催イベント「その内製化は何のため?星野リゾート 久本氏に聞く、内製化を検討する前に欠かせない重要な視点」の模様をお届けします。
本記事の動画では、久本氏の「自社の強みを知り、ありたい姿を考えた結果が内製だった──星野リゾートが今のIT戦略に辿り着くまでのプロセスとは」と題したプレゼンテーションの模様をご紹介します。
コロナ禍で証明された「変化前提」のIT戦略
2020年4月、新型コロナウイルスの影響により、星野リゾートの各施設は売上が9割減という未曾有の危機に直面しました 。この際、代表の星野佳路氏から「18カ月間の生き残り戦略」が発表され、現場は一気に動き出しました 。
情報システム部門も例外ではなく、進行中のプロジェクトをすべて中断し、生き残りのための施策に集中しました 。
- 大浴場の混雑可視化システム:IoTデバイスの開発から14施設への同時リリースをわずか6週間で達成 。
- Go To トラベル対応:不確定要素が多い中、1カ月でほぼすべての事務処理機能を開発・リリース 。
- マイクロツーリズム施策:独自の予約システムやギフト券システムの構築により、現金流出の抑制と新たな市場創造に貢献 。
これらの迅速な対応が可能だった理由は、コロナ以前から取り組んできた「変化前提のIT戦略」が整っていたからだと久本氏は振り返ります 。
IT部門が「成長の足かせ」だった過去からの脱却
星野リゾートのIT戦略が大きく転換したのは、2014年頃のことです 。当時は事業拡大にITが追いつかず、社内での信頼は失墜していました 。久本氏は「足かせ」からの脱却を目指し、「将来、あらゆる社会活動がデジタル化する未来(DX)の担い手になりたい」という5カ年計画を立てました 。
教科書通りの戦略「マイケル・ポーターの競争戦略論」
星野リゾートが戦略の柱としているのは、マイケル・ポーター教授の競争戦略論です 。
- 生産性のフロンティアの達成:競合と同等以上のサービスを同等以下のコストで提供する 。
- 独自の活動の選択:競合が真似しにくい「トレードオフ」を伴う活動を組み合わせ、フィット感を生み出す 。
特に注目すべきは、星野リゾート独自の「サービスチーム」という組織形態です 。一人のスタッフが接客から商品開発までマルチタスクでこなすこの仕組みは、顧客満足度と生産性の両立を可能にしますが、これを支えるには汎用のパッケージシステムでは不十分でした 。
信頼を取り戻すための「経営判断プロセス」の再構築
2015年当時、IT部門と経営・現場の間には、信頼や能力の面で7つのギャップが存在していました 。
システム投資判断会議の創設
信頼回復の鍵となったのは、2017年の「炎上案件」をきっかけに始まった、代表の星野氏を交えた「システム投資判断会議」です 。
- 現場の徹底理解:わずか10万円の機能追加であっても、「その業務は本当に必要なのか」を経営陣が納得するまで議論 。
- ITの自分ごと化:経営陣がテクノロジーを理解し、優先順位を自ら判断する文化が醸成されました 。
独自の評価指標「Fポイント」
内製化によるコストメリットを明確にするため、労働価値説に基づいた「Fポイント」という独自指標を導入しました 。
- 投入した労働量(エンジニアのスキルと時間)で価値を測る 。
- 案件ごとの「お金」の予算管理ではなく、「人員(ポイント)をどう配置するか」というリソース配分の議論へシフト 。
差別化の源泉:「全社員のIT人材化」
星野リゾートが目指す究極の姿は、「全社員IT人材化」です 。予算規模でグローバルチェーンに劣る中、現場スタッフ全員がITを活用して自走することで、圧倒的な人材数で優位に立とうという戦略です 。
3つのデリバリー・ポートフォリオ
目的に合わせて最適な開発手法を使い分けています。
- プログラミング(内製):差別化の源泉となる、本当にやりたいことを実現する基盤 。
- ノーコード・ローコード:現場スタッフ自らが業務プロセスを改善するための「市民開発」を推進 。
- SaaSの活用:汎用的な機能は外部サービスを積極的に組み合わせ、アジリティ(俊敏性)を確保 。
現場出身者のプロダクトマネージャー化
同社では、現場で長く業務を経験してきたプロパー社員を、システムの設計やUX設計を担うプロダクトマネージャーへと育成しています 。外部の専門家の指導を受けながらUML等を使いこなし、エンジニアと対等に議論できる人材へと成長させています 。
まとめ:DXは「目的」ではなく「手段」である
久本氏は、星野リゾートにとってDXに取り組んでいるという意識はほとんどないと言います 。
「デジタル化はあくまで手段であり、激しい変化に対応するために変化前提のデジタル能力を備えることは、企業が生き残るための必須条件である」
2013年当時はわずか3名だったIT部門は、現在では56名体制にまで拡大し、基幹システムの再構築という大きな挑戦を続けています 。内製化はゴールではなく、社員一人ひとりがテクノロジーを使い倒し、顧客に価値を届けるための「ステージ」に過ぎないのです 。
動画インデックス
・星野リゾート久本英司氏プレゼンテーション:自社の強みを知り、ありたい姿を考えた結果が内製だったーー星野リゾートが今のIT戦略に辿り着くまでのプロセスとは
-コロナ禍で旅行業界がピンチに。その時、星野リゾートはどう動いたか【00:02:05】
- 変化前提のIT戦略の備えとは【00:06:24】
-星野リゾートの戦略の教科書は「マイケル・ポーターの競争戦略」【00:10:34】
-変化前提のIT戦略をどのようにつくってきたのか【00:18:30】
-経営判断プロセスの構築に取り組んだきっかけとその過程【00:21:47】
-変化に俊敏に対応できるシステム基盤をどう整えたのか【00:29:39】
-差別化ポイント「全社員IT人材化」を実現するために【00:31:34】
-日本でいちばんの専門家のもとで現場出身の社員をIT人材に【00:34:28】
-困難だった内製エンジニアチームの立ち上げ【00:40:29】
-星野リゾートが考えるDXとは【00:42:48】
登壇者プロフィール

星野リゾート 情報システムグループ
グループディレクター
久本英司氏
軽井沢移住をきっかけに星野リゾートに入社。田舎の温泉旅館のひとり情シスでのんびりリゾートライフを送る予定が、海外4拠点を含む全国60拠点に急拡大。既存のホテル運営の枠にとらわれない戦略を実現するために独自のシステム構築の必要に迫られ、グループ全施設の予約システム、顧客システム、現地運営システム、管理系システム、インフラ、セキュリティ、IoTに至るまで自前化するための体制を模索し続ける。コロナ禍で大きな打撃を受けた観光業の現場で、55人のメンバーと共に生き残りをかけて奮闘中。

株式会社 AnityA(アニティア) 代表取締役
中野仁
国内・外資ベンダーのエンジニアを経て事業会社の情報システム部門へ転職。メーカー、Webサービス企業でシステム部門の立ち上げやシステム刷新に関わる。2015年から海外を含む基幹システムを刷新する「5並列プロジェクト」を率い、1年半でシステム基盤をシンプルに構築し直すプロジェクトを敢行した。2019年10月からラクスルに移籍。また、2018年にはITコンサル会社AnityAを立ち上げ、代表取締役としてシステム企画、導入についてのコンサルティングを中心に活動している。システムに限らない企業の本質的な変化を実現することが信条。

